■8月27日 オリュンポスのモデル http://www.iot.ac.jp/building/itcentre/mirai98/arco/arco.htm 2004/06/21 オリオングループ ●オリュンポスにはモデルがある ●「アップルシード」という言葉の真意 さて春の士郎正宗まつりも終わったことだし、次のイベントが発生するまでスリープしようかな・・・・・ ■2004念6月12日 ↑のやつ(タチコマのこと) 2004年6月4日 アップルシード雑想 千年王国の到来は、「ヨハネの黙示録」ネタである。かなり大きな戦いが起きた後に、千年王国が誕生するという預言の内容になっている。 (続く) |
2004/6/2
↓続き
殿田萌は直球過ぎてそれ以上何も突っ込めないが、
包田那珠美はなにか含蓄のありそうな名前だ。
魂合環とか、
出舂 真樹奈(でうす まきな)とか、
そういう系統の名前のような気がする。
ちなみにでうすまきなは
デウス・エキス・マキナ(機械仕掛けの神)
から来ている。
マトリックスにも使われているので、
ご存知の方も多いかと思う。
その昔古代ギリシャ劇で最後に機械仕掛けの神が
上から降りてきて、難問を解決する、
つまり張られた伏線を神の力で全て消化してしまう、
現代劇の考え方からすれば非常に肩透かしというか、
ご都合主義と取られてしまう演出法のことでもある。
しかしこの名前はそのキャラクターとあまり関係なく、
ドミニオンC1そのものとも関係が無い。
士郎氏が、あ、女の子の名前に使えるな、
と思った程度であろう。
翻って包田那珠美である。
最初、ホーダと呼んだのは、看護婦だから包帯と
関係あるかなと思ったからだ。
でも、くるたなすみ。
クルタで検索しても、映画になった犬の名前、
ネパールとかそっち方面の民族衣装、
このくらいしか出てこない。
何だろう、なにか由来はあるのだろうか?
くるたなすみ
くるたなすみ
くるたなすみ
くるたなすみ
くるたなすみ
くるたなすみ
くるたなすみ
くるたなすみ
くるたなすみ
くるたなすみ
くるたなすみ
くるたなすみ
・・・・・・
くるったナースMe!
・・・・・・
正解確率95%<オイ(笑
2004/6/1
↓の話題。
包田那珠美
くるたなすみ
KURUTANASUMI
に確定しました。
詳細はこちら
SACでくるたんと出てたという情報もアリ
sTwoさんありがとうございました。
aniotaさんが仕事中の時と仕事後の
プライベートなカッコの時とで髪型が違うので
一見別人にしか見えないと言われてましたが、
ヴァーチャルセックスのところでバトーに呼び出された後、
那珠美らしき人が怒っているシーンは、
髪型、わざわざ単行本で書き直してるんだよね。
多分連載時は同じ髪型だったと思う。
なおあのページはかなり書き換えられていて、
バトーがなめくじのセックスとかいって苦しんでるシーンは、
連載のときは、 こんな電脳化時代に
麻薬を使って快楽にふけるのは時代錯誤だと
いうような感じで馬鹿にして笑い飛ばしていた。
(正確なセリフは忘れた)
彼女らの名前がいつついたのかは不明だが、
SACのときにスタッフと士郎氏が綿密な打ち合わせをしていて、
荒巻に兄がいるなどの原作には出てこない裏設定を
いろいろと開示しているみたいなので、
その過程で決まった可能性もある。
でも殿田萌はとってつけたっぽいよな(笑)。
あとロングヘアーの彼女もアソートしてほしかったよなぁ(笑)
電脳3pフィギュア・・・・
やっぱだめだな(笑
2004/5/29
http://sega.jp/prize/topics/godo0405/
ワロタ
プライズってこんなニッチ商品アリなんだなぁ・・・
情報元は2ちゃんの士郎スレ
「名前なんかあったのか?」 という疑問が上がっていたが、
その昔、イントロンデポ掲載画のランドメイトを商品化する際に、
ランドメイトとオペレーターの女の子の名前を
士郎氏につけてもらったという話があったので、
おそらく今回も士郎氏が取ってつけた(藁
名前だと思われる。
殿田萌(笑)殿田大佐のメイドがなんで苗字殿田やねん。
娘のように思っていたのかな。
しかしトムリアンデ型をトムリアンデと呼んでいた殿田大佐が
名前つけるのかなー。
しかし、「萌」という名前は13年前につけていたとは到底思われない。
(「萌え」の起源自体はその当時くらいのアニメ誌とかパソ通だといわれているが・・・
ちなみに鷺沢萌説は、恐竜惑星をリアルタイムで見ていた私には到底信じられない)
ところでイノセンスではハダリ2O52になっていたが、暴走の被害者リストに殿田大佐は
入っていたのだろうか(笑)荒巻が何か隠しているとか(笑)。
さて謎なのは、 包田那珠美 である。
当サイトでも人気キャラで、まあ恥ずかしながらファンアート(アートじゃねえだろ)
私自ら描かせてもらったこともあるが(笑)。
疑問はひとつだけ。
なんて読むんだ?
ホーダナ・タマミ?
ホーデンナ・タマミ?
ホーダ・ナジュミ?
ホーダナ・ジュミ?
ホーダ・ナズミ?
ツツミダ・・・・
(以下延々 と続く)
真相はいずれsTwoさんのところで明らかになるであろう。
sTwoさんよろしくお願いします。
ま、それはいいが、
要望
セガよ
装備班の真由美を作るのだ!
さすれば神と認定されよう(爆)
(そうか?)
2004/5/22 著作権戦争
Winny作者逮捕、紹介サイト管理人の家宅捜索
個人ゲームニュースサイト管理人の逮捕
やけに著作権絡みの取り締まりが
厳しくなってるなーと思ったら、
時を同じくして
音楽ファイルのオンライン販売を始めるという
ニュースが続々と出始める。
輸入CDの規制も可決しそうだが
アーチストや業界内にも反対意見が多い。
amazonもそのような声明を出している。
Winny作者には弁護団13人がつき、
支援の寄付金も1000万円を超えた。
正しい法律があり、それを犯した悪い奴がいる、
というのではなく、過去の枠組みに当てはまらない
ハイテクによる複製/領布行為が
コンテンツ業者あるいは警察の逆鱗に触れ、
無理のある逮捕、強引な立法の可決
それがなされているように思われる。
これはもう戦争だ。
既に一部コンテンツ業者はCCCDという
CDの企画を外れ、音質を劣化し、
オーディオ機器を破壊するかも知れないメディアでの
販売を拡充しようとしている。
それ既にプロテクトは破られているそうで、
そうなると、定価で買う人だけがリスクを背負うという
結果になる。
「お客様は神様です」
という言葉は死語と化したかのようだ。
そもそも違法コピーや違法ファイル共有なんかやっている人は
それらが出来なくなる、あるいは使えなくなったとしても、
しぶしぶお金を出して買ったりしないだろう。
故に売上がその取締り強化で回復するとは
必ずしもいえないと思う。
ものすごい不況の中で、娯楽にかける費用を
削減するのは当たり前のことだ。
あと、戦争も日本人は関係ないといっていられない
世の中になってきたが、
そういう時代は、
ドキュメント、ノンフィクションの方が売れるのであり、
フィクション、エンターテインメントがそうそう売れるわけではない。
だが、かつての技術大国日本の残光もむなしく、
産業の経済基盤は崩れ、
「ジャパニメーション(笑)」を保護し、
輸出産業の主軸に据えようと、政府は、している。
そうすると、著作権違反を取り締まったり、
国内コンテンツ業者に有利なように法改正を行うのも道理だ。
(漫画喫茶、図書館などの貸与権などもあわせて)
あるいは大手企業からの圧力もあるのかもしれないが。
そうするとこの著作権にまつわる全ての事件が
ひとつの糸でくくられていることが分かってくる。
国家も警察も税金で動いている。
彼らの収入源は当然、莫大な法人税であろう。
行き過ぎた操作・逮捕の裏には、正義とかプライドもあるかもしれないが、
この奇妙な企業集合体国・日本は、
全てが経済活動に組み込まれているということを
忘れてはならない。
例えばファイルを流した全員を逮捕するより、
多少無理があっても開発者を逮捕することで
あるいは支援サイトを閉鎖させることで
実質的にトラフィックを減少させることができる。
これは最小のコストでできるだけ大きな結果を得ようとしている。
商業的な戦略である。
しかし違法コピーや貸与の取り締まりを強化し、
わずかばかりの需要の回復を図ることが重要なのだろうか?
もちろん、著作権は尊重しないといけないし、
優れた作品の作者に利益を還元することは必要だ。
しかし実際、どの現場でも(特に漫画、アニメでは・・・)
現場で最も作品作りに貢献し、
かつ一番辛い作業をしている人には
還元されないようになっている。
そういうものである。
いまこの危機的状況は、
同じ日本人同士争っている場合ではないと思われる。
例えば600億円市場と言われる食玩業界。
オマケ付きお菓子が飛ぶように売れても、
その生産は全て中国で行われている。
中国の生産コストは安いものだが、
中国人が日本の高いものをたくさん買ってくれるとは思えない。
結果、日本で動いているお金はどんどん減っていくのである。
家電メーカーやコンピューター業界も、
生産ラインは全て国外だ。
これでは日本のお金はどんどん減ってしまう。
反面、
日本には失業者があふれだす。
エンターテインメント系コンテンツが売れなくなっているのは
ひとえに不況だからだ。
その根本問題を解決せずに、
違法コピーのための環境整備
(※パソコン、ハードディスク、ブロードバンド環境など)
を削減し、コンテンツの消費に廻してもらおうというのは不可能である。
国家は「ジャパニメーション」 を輸出産業の主軸に育てようとしている。
その尖兵は我らが士郎正宗、押井守、プロダクションIGというところだろうが、
海外で売れるのはこうした一握りの人だけだし、
国家を支えるまでにはなるのかなーと
疑問に思う。
それに普通のアニメはやはり海外の労働力に依存してるし・・・
個々が、あるいは個の複合体である企業が、
それおれ自分と、そのわずかな周辺の利益ばかりを考えるあまり、
残り少ないわずかなパイを
愚かにも奪い合っているのが今の状況ではないかと思われる。
そのパイは、常にバブルなんだと思う。
永遠の好景気というのは、ないんだと思う。
我々の出来ることはなにか。
何が望みだ?
俗悪メディアにまみれながら、
種(ギム)をまかずに実(フクシ)を食べることか?
興進国を犠牲にして
(私らに電脳はないので、中略(笑))
未来を作れ
・・・・
(そんなこといわれてもナ・・・・)
具体的な資料とかなくて申し訳ありません。私の周囲で話し合われてることをノリに任せて
書いてるだけです。しかし幾ばくかの真実もあると思ってます。
なんか間違いがあったらごめんなさい。
最後の素子のセリフの引用は、私の好きな言葉のひとつです。
いま定職につかない若者が増えているといいます。
今の日本がダメになったのは、
TV媒体によりタダで洪水のように流される、俗悪メディアにまみれながら、
まさに種をまかずに実を食べようとする輩が増えたからのように思われます。
著作権は尊重しますが、マスメディアの流す情報の大半は、
麻薬的価値観しか持たないものではないのでしょうか?
低賃金でもいいから、全力で働くこと、
そして適切な富の分配、後進(興進)国 への支援がなされれば、
日本の状況も変わってくると思ってます。
年金だって、目先のお金もないのに将来の保証なんて考えられるか!
ってな感じで未納な人も多いんじゃないかと思います。
働かないで求めるところが多いから、
見返りもすくないんじゃないかと。
2004/5/7 Zガンダム映画化記念
Zガンダムの映画化が公式発表になり話題になっている。
で、それを記念して、今回は「逆襲のシャア」について語ろうと思う(笑)。
いやZガンダムはストーリー的にはあまり思い入れが無いんですよ(笑)。
逆襲のシャアを知らない人にために簡単に内容を説明しよう。
逆襲のシャアはZガンダムの正統な続編である。
Zの時代でシャアは地球連邦の体制側に組みいることになるが、
やはり地球人は地球を汚染しつづけるだけだったので、
本来のジオン・ズム・ダイクンの意思を告ぐ形?での ネオジオン軍を再興し
地球に小惑星アクシズを落とし「核の冬」を到来させ、
環境が回復するまで温存しようという計画を実行しようとする。
そのとき地球の生物は絶滅し、
スペースノイドだけが生き残ることになる。
ってこれ!映画アップルシー...
うわなにを)やめさきpdyh
・・・とまあ、シャアとその作戦を阻止しようとする連邦軍のアムロ(たち)との戦争を描いた作品である。
古い映画だしネタバレだが結末を書いてしまうと、
シャアの作戦は成功し、 小惑星アクシズは軌道を離れ落下、
地球の滅亡という未曾有の危機が迫る。
アムロはそれを無謀にもνガンダムで押し返そうとするのである。
νガンダムのバーニアの出力では絶対に無理だ。
しかしその姿に感動したネオジオンの兵たちまで
アクシズを押し返そうとする。当然爆発してしまう。
しかしνガンダム、サザビー(の脱出ポッド)に装備されていた
サイコフレームにみんなの想いがオーバーロードされ、
アクシズの落下が止まり、地球は救われた。
・・・・
ガンダムの枠組みでこんな奇跡を起こしていいのか?
この結末は当時いろいろと物議をかもし出した。
さてここで逆襲のシャアを構造解析してみよう。
といってもセリフの隅々までしゃぶり尽くそうというわけではない。
なんでこんな結末になったのか、その元ネタを探そうというわけだ。
結論からいうと、それはチベット密教 である。
証拠としては、地球連邦政府がチベットにあったり、
クリスチーヌ(だっけ?)という行者(クエスの師)が出てきたりしてるので、
間違いは無いと思う。
(制作当時のチベットブームとか、ニューエイジ運動とかの影響もあるのかもしれない)
チベット密教の哲学的背景には、大乗仏教の唯識と中観という二つの派の思想がある。
唯識とは、外的な事象は心によって作り出されたものであるという考え方であり、
中観とは全ては「空」であり、相互依存によって一時的に生じているだけで、
そのものとかいう実体はどこにも存在しないという考え方である。
この2つを総合するならば、
要するに宇宙とか地球とか自然とか私たちの外部にあるものも
また私たち自身も、
なんら実体があるわけではなく、
心のが作り出したものになるということになる。
本当は何もないところになにかを作り出しているわけである。
ということは、物理法則自体も心が作り出したもの、ということになる。
だから心の中にある物理法則という「固定観念」を崩せば、
物理法則は存在しないことになる。
そこで新たにこれはこうなると強力に念じれば、
それはそのとおりになるというわけである。
そういえばスプーン曲げというものは、
固定観念の少ない子供たちにやらせたほうが
成功率が高いという話を聞いたことがある。
そのようなわけで、チベット密教では、心の本性に到達できたら、
物理法則を超えて奇跡が起こるというような例が多くあげられる。
その中には、太陽の動きを止めてしまった密教行者の話もあるわけだ。
これが逆シャアのラストの元ネタであると私は確信する。
超能力と脳波の関係を調べている学者もいるようだが、
超能力者が能力を発揮するときに脳の特定部位の電位が一瞬急激に上がるとか
いうことがあるようだ。
脳波を増幅するサイコフレームが、
皆のアクシズを止めたいという思念を増幅し、
アクシズが止まった。
この設定はそういった類の書籍を読んで考えられた
ものではないだろうか?
その脳波がどうして外界の物質の動きに作用するのか?
どんな力が働いているのか?
と思った人は物理の固定観念にはまっている人だ、
・・・ということに、チベット密教的にはなるのであろう。
昔、メカ沢中沢新一氏の著書で、チベット密教の考え方は
世界を(各個人が見ている)ヴァーチャル・リアリティの集積体である
としているのを読んだことがある。
外界は脳が見せている幻影であるということで、
客観的に実体があるような外界も、
実は同じ固定観念を持っている人たちが作り出した
幻影の複合体ということになる。
だとするならば、サイコフレームで増幅された思念の電位の総量(単位は念度か(笑))
が、アクシズは落ちると考えている人のそれを上回れば
アクシズは落ちない、ということになる・・・のかもしれない。
要するに、まあチベット密教的には、現実世界はマトリックスだということだ(笑)。
しかし・・・押井守作品ならともかく、
よくガンダムでこんな話をだしてきたよなー。
そりゃ皆怒るよなー。
今は富野監督もニュータイプに否定的みたいだし、
こういう解説をして「人には超自然的な潜在能力があるんだ」というような
プロパガンダをされても困るかもしれないが。
ところでチベット密教の目的は自分のために奇跡を起こし、魔法を使えるようになることではない。
必ずそこには、苦しんでいる人を救いたいとか、そのために自分が犠牲になってもいいという心が説かれる。
最後のアムロの心はまさにそれだと思う。
えっとこれは、実は、日経キャラクターズの士郎正宗インタビューで、
仙術超攻殻オリオンと攻殻2manmachine interfaceがほとんど同じ内容
と考えてくださいとかあったので、どこが同じなんだろー(笑)
と思っていろいろ考えていたわけですが、
その過程で、そもそもオリオンで問題になっていたことはなんだったのか、
なぜ煩悩や諸悪強欲が増大すると帝国が破滅するのか、
そういう基本的な概念を合理的に説明しないといけないと思いまして、
オリオン⇒チベット密教⇒逆シャアという風に思考が巡り、
念積体の具留化と唯識・中観話とアクシズを止めるという話を同列に並べると
分かりやすいかなと思って考えてたのですが、
まあZガンダム映画化の話題でちょうど良かったので
逆シャアの内容に絞って書いてみました。
チベット密教の予習は出来たと思うので、
次はオリオンの話を・・・・
いや、難しくてかけないかも知れませんが(笑)。
2004/4/19 アニメの自主規制
映画アップルシード、
原作と違う!!
というのはそりゃそうだろうと思うし、
OVAアップルシードやイノセンスと比較して
満足感を得ているヒトもいるので
それはそれでいいと思います。
しかし、エヴァとかナウシカ(原作)とか言われてますが(笑)
想像の斜め向こうを行く展開に衝撃を受けました。
ここでとうとうと原作の理念について語るのは簡単ですが、
そんなことはこのページをずっと見てくれていた方には
いうまでもないことですので、
じゃあなぜ原作どおりに出来ないのかを
考えてみました。
マンガ夜話「攻殻機動隊」の回でも語られていることですが、
東京の大手出版社ではマンガの表現に
いろいろ自主規制がついています。
政治的ポリシー、差別表現、宗教ネタ、難解なSF、注釈・・・
これらは絶対に避けること。
万人に受け入れられるものを
マーケティングした結果、
こんなことになってるわけです。
作品世界の政治体制も当然、自主規制の対象になるでしょう。
例えばマンガ家が個人的にナチスのマニアだったとしても、
一般商業誌にナチスを絶賛する内容の
マンガを書くことは出来ません。
鍵十字ではなくお寺のマーク、
卍
ですら猛烈な抗議を受けることもあります。
(海外のポケモン話もさることながら、
「焼きたて! ジャぱん」作者が自身のHPで
この禁忌に触れ抗議を受けて
HPを閉鎖したなんてこともありました)
しかし80年代にその商業マンガの常識を覆すような作品が現われました。
それが「アップルシード」です。
それは大手出版社的な商業主義とは関係なく、
大阪の中小出版社から発売され、
大手出版社が避けて通ってきた要素を
たくさん詰め込んで、
まあ売れてしまったわけです。
さてこのような視点で見た場合、
「アップルシード」をもう一度、
世界レベルでのマーケットに引っ張り出すためには、
どうしても自主規制が必要になる・・・
これが今回想いを巡らせてたどり着いた見解でした。
自主規制された作品では、
絶対君主政治とか覇権主義等は
大体敵側として描かれ、
民主主義や個人主義が味方側の
普遍的なイデオロギーとして描かれる場合が多い。
もちろん中世を舞台にした作品では
王様も出てくるだろうけど、
現実の社会形態を否定して、
絶対君主制に改革するというような
作品は決して出て来えない。
現実を革命して変革するような話は、
当然いろいろ批判や圧力がかかるはずだ。
「アップルシード」は絶対君主制ではないが、
民主主義、個人主義という
我々のリアルな社会を否定して、
理想国家を作り、 人間は参政できず、
バイオロイドとコンピュータによる政治を提唱し、
さらにそのバイオロイドのシステムを
人間に施そうとした。
それは延齢などのメリットも存在するが、
エゴや害意の抑制をも強いられる。
果たしてそれが正しいことなのか、
デュナンは読者の代表として悩み続ける。
ブリアレオスはもう
「麻薬のような価値観を一掃するチャンスだ」
とかいって迷いも何もない。
これは現在の自由主義、資本主義に対する
革命を肯定しているに他ならない。
要するにアップルシードは、
新個人主義、
自主的に全体との調和を図る個体、
その集合体による社会を理想社会として提唱する。
そういう思想マンガとしての側面を持っている。
個人的には過剰な私利私欲や害意などは
人間の尊厳として持ってても役に立たないばかりか
最終的には自分を脅かすものであると思っているので、
そんなものを薬物や遺伝子操作で
除去できるなら万万歳と思う。
だが全ての人類がそう考えているとは限らない。
特に現在のアメリカ、この国でそんな理想社会像などを
打ち出した場合、どうなるのか。
批判や圧力のリスクを覚悟で
アップルシード原作のすばらしさを広めたいという
ポリシーがあるわけでなく、
単にヒットしてお金をもうけたいという普通の考えのヒトが
そんな微妙な社会理念を軽率に振り回すことは
とてもじゃないができやしない。
「攻殻機動隊」では素子のダーティな部分が
かなり描かれているが、
映画ではすごくクリーンに描かれていた印象がある。
(背任行為的なアルバイトもしてないし、義体を盗むなんてこともしていない。
最後の義体が少女なのも姓転換のモラル問題を避けるための自主規制では・・・
もちろん押井氏の演出意図として意味はあるのだろうが、
海外展開を考えて部分もあると思う。)
だからまあ人類絶滅の計画を阻止するというお話は
あ、ネタバレだ(笑)
大阪の中小出版社のマーケット(今回は講談社からも出てるが(笑))
よりも広い 映画のマーケットとしては、
特にワールドワイドな展開を行う場合は、
無難なのかなぁと思う。
でもHOLONICS、個人と全体の調和を提唱する
HYPER HOLONICSは
原作アップルシードを応援しています(笑)。
いや続きは期待してません。描かないんでしょ。どうせ。
新作の予定とライフワークとなる作品をほのめかしてたけど、
アップルシードだけは予定ないからね。
士郎イズム無きアップルシードでよければ
映画次作に期待すべし。
あと、士郎氏的には、バイオロイドは千年生きることが可能で、
それだけ長く生きられると、子供を欲しがったりしないというコメントが
あったような・・・番台のアップル読本かな。
データブックでは千年って出してないかも知れないが、
そのコメントがあったので、千年王国ってのは本当に
ヒトの寿命が千年になってるんだと解釈してます。
バイオロイドは寿命の末期にはじめて老化するようだから、
それまで17歳の若い肉体だったら、
老後や後継ぎにことは考えないし、
自分自身が遊びたいから子供は作らないだろ−なーと思う。
大体家督制度もオリュンポスにはないしね。
個人の家も計画的に支給というか配置されてるみたいだし。
したがって原作ではバイオロイドは自主的に
子供を作らない、という設定になると思います。
2004/3/29 なにを寄る辺に・・・・
「イノセンス」寄り添う相手が必要
久々によいお話である。(オイ)
生きることは、何かを失うこと。大げさに言うと、その死生観を得る過程が『イノセンス』だった。
この部分はまさに仏陀の教えと一致する。
犬は僕自身ですから。僕の体の一部ですからね。
犬に献身的に尽くす押井守。
今回はなんとか回復したガブリエルだが、
いずれ別れのときが来ることだろう。
そのとき押井氏はどうなってしまうのだろう・・・・
2000数百年も前に、仏陀が広めた教えとは、
全てのものが無常であり、
好きなものも嫌いなものも、
あるいは好きな人も嫌いな人も
全ては去っていってしまう。
だから苦しみを感じないようにするには、
「求めてはいけない」
ということだった。
それで、その法を行うためには、極端な話、
それこそ一人で林の中の象のように、
悪をなさず、求めるものは少なく過ごす。
これによって「ニルヴァーナ」という境地を目指す。
ニルヴァーナは二元論とか時間とか
空間を超越した世界らしい。
行くことも来ることも、光もやみも、
比較対称になるものは何もないのである。
(対消滅なのか・・・?仮想粒子に満たされた真空に実在が・・・?)
しかし、社会性生物である人間にとって、
こんなキツイ宗教は長続きはしない。
西暦紀元前後に、大乗仏教と呼ばれる宗教が勃興する。
仏陀は苦しむ人々を見捨ててニルヴァーナに入ってしまった。
そうするともうこの巨大で複雑な循環系であるところの
六道輪廻に舞い戻ることはない。
ということはこの我々の現実世界、
(均一なるマトリックスかもしれないが・・・・)
にはもう戻ってこないということになる。
ネオがマトリックスから救い出されてはいお仕舞い、
である。それでは残されたほうはたまらない。
そこでそういう修行をしている一派を否定し、
何度も生まれ変わり、苦しんでる人々を救おうというのが
大乗仏教である。
しかし勃興当時はそれはそれで
意味のあるものだったかもしれないが、
今の坊さんが僕らを救ってくれるかというと、
そういうことはなく、 葬式と墓参り、
つまり死んだ者のためだけに祈るようになった。
大乗もいろんな宗派があるのでそれには言及しないが、
本来共通することとして、
菩提心という概念が重視されている。
この心は簡単にいうと、
他人の幸福を願うこと。
他人の不幸を悲しむこと。
他人の善行を喜ぶこと。
他人の悪行に平静でいること。
という4つに集約できる。
要するに自分のことは考えないのである。
押井守氏は、自分のことを考えると辛くなると言っていた。
だから犬の世話をするのである。
そのとき、心が自分から解放されて、楽になるという。
これはある意味この菩提心と共通している。
では違いはなにかというと、仏教の場合は、
犬だけではなく、犬も含めて、
生きとし生けるもの全てに対し
そのものと一体化し、喜び、
悲しみあるいは悲しみから
救いたいと願い、
他人の幸福は妬まず喜び、
自分はいかなる目にあおうとも平静な心を保つ。
象の詩と矛盾しないかどうかだが、
よく見ると他人に何か求めるところはないようだ。
他人のためになにかをしてあげる。
他人にひどい目に合わされてもいい。
そして押井守氏は、ガブリエルが生きているときはとことん尽くし、
死んだら死んだで、その空虚な心、穴ぼこを埋めずに
生きていくという。
もしそういう気持ちに皆がなれるとしたら、
イノセンスは死人のものになってしまった仏陀の教えの
源流に導いてくれるのかもしれない。
問題はこのインタビューを読めなかった人も、
映画からそれを感じ取れるかどうか、だが(笑)。
どうも寄り添う相手が必要といっても、
傷をなめあって生きることではないらしい。
相手が自分を支えてくれるのではなく、
自分が相手を支えるということ。
そんな人がいたら、それは「守護天使」
かもしれない。
2004/3/20 均一なるマトリックスの裂け目の向こうへ
犬や猫は人格を持たないし、言葉を話さない分、純粋で”神”に近い存在?
まあ「人」格はないでしょう、それはよしとして。
大抵の動物は、動物性食物連鎖によって、
絶えず死の恐怖に脅かされている。
それが神に近いと言えるだろうか?
聖書においても、
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
といわれているように、
「 光よ。あれ。」
という言葉からこの世は始まったことに、 なっている。
言葉=神と言っているくらいに言葉が重要視されているのに・・・
もちろんそれが真実かどうかわからないが、
聖書に詳しいと言われる押井氏が
聖書を踏まえた発言をしないのは、
詳しいけど信じてはいないのだろう。
以上は批判ではなく、押井氏がどう考えようと個人の自由であり、
ただ聖書を知らない人が誤解しないように
説明を加えたいと思っただけです。
宗教における言葉の重要性については、
いろいろな世界の宗教について、
呪文、読経、真言など言葉を使った
儀式などが存在していることでも分かるとおもう。
時には歌や踊りを伴うこともある。
そういったものが、異質な空間、雰囲気をかもし出すことは事実で、
信者同士の宗教的一体感をもたらすために必要なのだろう。
士郎正宗著「仙術超攻殻オリオン」においては、
「韻」複雑な言葉×「念」集中力の強さで
言葉を実体化させるという概念があるが、
これも真言の意味を疑似科学的に説明したものだと思う。
実際にチベット密教では神 の住む浄土の、
その風景や宮殿のディテールを
一瞬にして目の前に浮かぶくらいまで、
繰り返し繰り返し唱える修行があるそうな。
これは現実世界にはどのような効果をもたらすか不明だが、
死んで肉体から魂を抜け出した後、
このような世界が生成される(あるいはその世界と通じる)
ことを期待しているらしい。
まさしく「念積体」だ。
来世のプログラミングというか、モデリングというわけだ。
仏陀の説くところもその原理を利用していると思われる。
「無所有を目指しつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。
諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ」
(中村元訳 「ブッダのことば」より)
もともと仏陀が説くところは、輪廻からの脱出である。
僕らは普通、無から生まれて無に帰するようになんとなく
思っているかも知れないが、
無から生じた割には、生に執着し、死を極端に恐れる。
無から生まれたものが無に帰るのがそれほど恐ろしいことだろうか?
仏教では、僕らが数限りない死を経験してきていると説く。
その数限りない生と死のサイクルから離脱する。
二元の世界から脱却する。
それが仏陀の教えなのである。
それこそ、均一なるマトリックスの裂け目の向こうへ行く
ということに他ならない。
「上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、
それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。
このようにしていて、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、
我がものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみも捨てて、
この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう」
(前出、ブッダのことば)
マトリックスとは元々、サイバーパンクの元祖「ニューロマンサー」から出ていた概念で、
無数の電脳を直結した共通感覚、共通認識の世界、
いわゆるサイバースペースである。
映画マトリックスは、逆に現実と思い込んでいた世界が
マトリックスであるという世界観であり、
必然的に、観客をして、今自分が現実と感じている世界も
実はマトリックスではないのかと疑わせる
哲学的なテーマを持たせている。
イノセンスにおいては、現実は厳然として現実であり、
電脳マトリックス世界は仮想世界である・・・という設定である。
しかしキムのゴーストハックにより、
現実が仮想世界の続きでないと言い切れるのか?
という問いかけがなされる。
仮想世界は現実の制約をある程度なくして、
時間と空間を隔てて電脳を持つもの同士がアクセスすることができる。
その世界はまさに人間の煩悩を具現化したものであり、
現実以上にリアルな感覚を体験することができる。
しかしそれは感覚神経を電気的に刺激しているだけのことであり、
実体は存在しない。
実体など存在しなくても、感覚における喜びを満たせれば
同じことだと言われるかも知れないが、それこそ「麻薬のような価値観」である。
しかしそれもまた無常である。
仏陀の言葉も、現実はマトリックスに過ぎないといわんばかりである。
感覚の外の世界に対する喜び、偏執、識別、欲望、疑惑、
これらが煩悩の激流であって、そういうものに心を向けず、
「何も存在しない」と念じつづけるのである。
人間は目の前の幸福、目の前の物質、そして自分自身と
好きな人、ものに縛られつづける。
そして無常などは意識しない
必ず全てに別れの時が来ることを考えず、
そのときが来てから嘆き悲しむ。
そういう真実を見ないで自分に都合のいい思考をする脳の集合体。
そして自分が苦痛を感じる原因を理解できない脳の集合体。
それが現実といわれるマトリックスである。
孤独に歩め、
悪をなさず、
求めることは少なくあれ。
林の中の象のように。
マトリックスから脱出した人々とともに歩むのであれば、
マトリックスから脱出できるチャンスが与えられる。
もしそういう理解者がいなければ、孤独に歩むしかない。
ここはマトリックスなんだとか言い出したら、
現実世界では生きていけなくなるだろう。
孤独に生き、マトリックスにハマらないことによって、
いつかマトリックスの裂け目の向こうへ行くことができる。
これはこのような意味の詩なのである。
なんかオチがついちゃったなぁ・・・
もうひとつ、書きたいことあるんだけどね。
犬の世話に代わるもの、
について(笑)。
2004/3/13 動物はイノセンスか
孤独に歩め、
悪をなさず、
求めることは少なくあれ。
林の中の象のように。
なんで林の中の象なのか?
押井方程式の中では、動物は生きるだけで精一杯の、
純粋な存在であるということらしい。
人間は自分、あるいは他の人間を意識すると辛くなる。
だから孤独に暮らし、寂しかったら犬か猫かを飼うよう勧めている。
そういうことから、動物こそ生きる以外に煩悩がなく、
無垢な存在であると捉える人もいるかもしれない。
それと林の中の象を直結して考えるわけにはいかない。
この詩は象のたとえ話で語られる章の一説である。
法句経では象のほかにいろいろな題材を用い、仏陀の教えを伝えようとしている。
動物の例えは象を除いてほとんど見あたらないような感じだ。
ここで再び象の詩を引用しよう。
320 戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われらはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(タチ)が悪いからである。
321 馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものとなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。
象の章の冒頭で出てくる象は、人間に飼いならされた象である。
その飼いならされた象が、堪え忍ぶ姿が人間の我々にも推奨されるのである。
つまり野生の象そのものが良いと言うわけではないのである。
325 大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。
忙しい現在人の日曜日の様のようだ(笑)。日本人は勤勉だから、
急にリストラされたりしてもこのような生活が送れずに
なにか仕事をしなくてはいけない衝動に駆られる。
もちろんこういうケースに当てはまる人もいるかもしれない(笑)が、
心当たりのある人は要注意だ。
その姿が豚と関連づけられている。
(千と千尋の親のようだ(笑)でもそれは我々の象徴でもあるのだ)
くりかえし母胎に入るとあるが、 仏教では、魂は死んだ後も流転をし、
迷いの生を続けるということになっている。
日本では、死んだらそのままの姿と名前を伴い、
成仏と称して霊的な存在になると、なんとなく考えられているが、
仏教における真実は六道つまり、天の神、阿修羅、人間、動物、餓鬼、地獄の
どこかの領域を流転しており、その大部分は、動物・餓鬼・地獄の三つの世界を
流転すると言われている。
どういった世界に流転するかは、生前の行いで決まると考えられており、
上記のように楽しみにふけっている人は 動物や地獄に生まれ変わることになるようだ。
動物は一般的には捕食関係にあり、食うか食われるかの生存競争
を強いられることになる。不幸な存在と位置付けられている。
326 この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、──象使いが鉤(カギ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。
結局のところ象も私たちも欲望に任せその心を制御しないのは同じなのである。
ここで象は調教されることで飼いならすことができるが、
人間は自分で自分をある程度抑制することもできる。
そして仏陀はさらにその心をすっかり抑制しようと言っているのである。
328 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。
この伴侶にすべき人というのは仏道を修めている人であろう。
現代の競争社会においては、個人と個人が足を引っ張り合い、
隣の奴よりも自分がいかにいい暮らしをするかということに重点がおかれていた。
その競争に疲れ果て、人々の心は癒しを求めている。
しかしその疲労感、苦しみの根本を見極めようとせず、
癒し系といわれる人、グッズ、場所、サービス等々を貪り求めるのだ。
逆に自分の幸福のためには 他人の犠牲をいとわないと言う人も増加し、
信じられないような犯罪も現われている。
思慮深く聡明でまじめな生活をしている人
なんてのはそうそういやしないのだ。
できないならば、国を捨てた国王の
330 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ヒトリ)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。──林の中にいる象のように。
この話は自分で自分の欲望を抑制しろ、というお話である。
そうしないと本物の動物になってしまう、
あるいは地獄に落ちる結果にもなってしまう。
この詩はそうもいっているのだ。
押井守氏は、犬は自分にとって神に等しいものかと考えていたが、
最近は自分の身体の一部であると考えているらしい。
神の世界も、作品にしばしば聖書や神話が引用されているように、
嫌いではないという。
しかし神を信じるならば宗教戦争になってしまうので
それはしたくないという。
後世の仏教はまた別でかもしれないが、仏陀の説いた法は、
神のお告げによって政治を行うとか、
間違ったことを行う者に制裁を加えるべきというような法ではなく、
それこそ
「均一なマトリックスの裂け目の向こうへ行け」
ということであった。
またもし機会があればこの辺について語れるといいね。
2004/3/7 孤独に歩め
孤独に歩め、
悪をなさず、
求めることは少なくあれ。
林の中の象のように。
これは荒巻と素子(荒巻素子ではない(笑))のセリフであり、
作品の中心にあるテーマのようだ。
押井氏がこれをして何をいわしめんとしてるのか、
手っ取り早く知りたい人は、宝島社の
イノセンス&攻殻機動隊コンプリートブックを見ると良い。
まだ突っ込んだ解説を書く余裕がないが、
【イノセンス】や、【林の中の象】【孤独に歩め】等、
この詩をキーワードにこのサイトを探し当てた人も相当に多いようなので、
手がかりを先に書いておく。
この詩の出典は、法句経(ダンマパダ)という経典だ。
イノセンスでは臨済宗⇒世阿弥という引用もなされているようであるが、
この詩は仏教の開祖と言われる、仏陀、釈迦牟尼その人が直接話したことだ。
漢訳でも伝わっているようだが、2ちゃんねる等でも引用されているのは、
パーリ文の大蔵経から 中村元氏が訳したもののようである。
文庫本(ブッダの真理のことば、感興のことば 岩波文庫)も確認したが、
なんとネット上にまるまる掲載されていて、
打ち込む手間が省けた(笑)。
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/sinri.htm
328 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。
329 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。
330 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ヒトリ)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。──林の中にいる象のように。
331 事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。
この330番が問題の詩の部分だ。
「愚かな者を道伴れとするな」が映画の引用としては抜けている。
面白いのはこの前後をだけを見ても、仏陀が別に友達との交わりを完全に避けて、
孤独でいることを絶対的に推奨しているわけではないというのが分かるだろう。
しかし映画は未来を舞台としているとはいえ、
身体の一部を機械化した人間(人形)たちは、
現代の私たちの姿であるという。
だとするならば、現代の社会において、
この、孤独に歩め・・・という詩が引用された意味は、
328番のような、「思慮深く聡明でまじめな生活をしている人」が、
現代社会においてほとんど存在し得ないからであろう。
押井氏は、人間同士の付き合いは辛い、苦しいものだと言っている。
それゆえ孤独になり、あとは犬猫を飼えばいい、もしくは自分の好きなもので
満足すればいい、人間が人間を追い求める必要はないという話になる。
まあ、押井氏が法句経の原典に当たったかは不明で、
たまたまみ発見したところではこの部分の引用しかなかったのかもしれないが(笑)。
ところが仏陀の詩は、これとはちょっと違う趣旨で言われている。
機会があれば、それをもう少し深く掘り下げたい。
〜続
2004/3/1 林の中の象のように・・・
孤独に歩め、
悪をなさず、
求めることは少なくあれ。
林の中の象のように。
イノセンスの予告編にこのようなセリフが出てくる。
例の「2501」素子を探せにて聞いた人もいるようだ。
公式サイトのイノセンス宣伝会議
「バカと、イノセンスと、鈴木さんの壁」
にも載っているくらいだから、 映画のテーマの本質的な
ところを占めている言葉ではないかと思われる。
しかしなんで林の中の象なのだろう?
ネット社会で「孤独に歩め」とは一体どういうことなのだろう?
予告編の公開まもなくしてこの言葉は仏陀の言葉であると、
2ちゃんねるにて伝えられる。
ああ、そうか、仏陀の言葉なのか。
この言葉によって押井守氏が何を言わんとしているのか、
それは映画を見る以外に分かる術は無い。
他にも聖書や孔子、斎藤緑雨などいろいろな偉人、
哲学者、文学者の難解な言葉が引用されているということで、
原作の「エン」という言葉をわざわざ聖書の意味不明な
一節(申し訳ないが、原典から非常に意味が捉えづらかった)
に置き換えた前作「GHOST IN THE SHELL」から
逆に仏教に回帰したということでもあるまいが・・・・
映画の中の使われ方はともかく、一件まあ何の変哲も無い、
しかしよくわからないこの仏陀の言葉について、
ここでは解説を試みようと思う。
実はこの言葉には仏教のエッセンスが凝縮されている。
それは一言では語り尽くすことが出来ない。
この言葉の背景にある仏教的見解とその目的について検討しなければならない。
しかしこういうと宗教の話なんか聞きたくないという人もいるかも知れないので、
一応攻殻・士郎正宗作品と絡めて話を展開することにしよう。
以下次号
イノセンスから入った人へ・・・
あるいは構造解析復活か?と思われた方へ
イノセンスの原作、攻殻機動隊は、膨大な情報量と緻密な設定によって
圧倒的な世界観を提示した士郎正宗の代表作である、
などとよく言われる。
STAND ALONE COMPLEXなどにはまっている人は
そんなところが気に入っているのかも知れない。
しかし私にとってはそれ以上に、「生命」とは何か、
宇宙とのつながりは、そしてゆらぎ=不安定さのもたらす意味は・・・
など、宇宙の真理そのものに迫るような
士郎正宗氏の洞察力に惹かれるものがあった。
「アップルシード」では理想社会の追求を、
「ドミニオン」では環境問題とヒトの統治権の是非を、
「仙術超攻殻オリオン」ではヒトの業と真実の叡智に至る道を、
娯楽性の高いキャラ、メカ、アクションと、
様々なジャンルの知識を集積した注釈を駆使し、
奥深いテーマ性を盛り込んでいた。
そこが最も好きだったのだ。
だから士郎ファンのほとんど全員が絶賛する
コンフリクト1は私にとっては正直全然面白くないし、
(PHANTOM OF AUDIENCEのほうが、
表面的には別作品とさえ思えるほど
ナンセンスなギャグマンガなのに、
テーマ性が盛り込まれており好きだ)
昨今の超高密度エロイラストなんかいいかげんにしてほしいと思う
(あ、これは皆そう思ってるか(笑))。
それも士郎正宗要素だから肯定してねなどという
寝言には付き合っていられないのだ。
よって私は一度ホームページを閉じることにした。
士郎氏の新作漫画もなく、万人が難なく同時に鑑賞できるわけではない
(しかも士郎正宗氏以外の人が脚本を書く)
STAND ALONE COMPLEXで一年ネタを
繋いでいくことは出来ないと感じたからだ。
やっとこ地上波放送が始まったが、
解説をいまさらしようという気は無く、
野良犬の塒の教官殿が
完璧な解説をまとめてくれているので
それで十二分にお釣りが来る。
しかし、
2ちゃんねるのスレではテンプレートで
必ず旧サイトのURLが貼ってあるが、
webのアーカイブではCGI処理されている
ログまでは保存されていないので、
ちょっと申し訳なく思っていた。
そういうわけで更新は出来ないが
ログを公開することにした当ホームページが
HYPER HOLONICS ARCHIVESと称しているのは、
自分自身
「士郎正宗」を全肯定できなくなってしまい
タイトルに困ってしまったからだ。
「元漫画家士郎正宗の現役時代の作品構造解析(エロイラスト除く)」とか、
もともと長いサイト名がさらに長くなってしまうし、
大体構造解析に参加してくれるような人ももういないし、
自分自身ももうそれだけのゆとりは無い。
さてかつての読者の皆さんがこのサイトを
どう思っているかは知らないが、管理人としては、
表面上のストーリーや設定を楽しむよりもとことん深読みし
理屈をこねるという一面を有するものであると認識している。
そしてそれができるのは
「元漫画家士郎正宗の現役時代の作品」
しかないからだと思っていたからだ。
ところが、イノセンスは、前作「GHOST IN THE SHELL」が
低予算で押井氏自身の企画でもなく、
愛犬ガブちゃんのお産が気になり
一刻も早く熱海に帰るため、
非常に無駄の無いシンプルな映画に
仕上げられている のと違い、
予算と時間と人手をたっぷりと使い、
映像、セリフ、字幕(?)の情報量を
極限まで増量した作品ということらしい。
その嗜好の傾向こそ異なるが、
それこそが「元漫画家士郎正宗の現役時代の作品」
と合い通じる部分ではあるまいか。
かつて士郎氏は、
ロボットの研究は人間の研究に他ならない、
人間の部品を全て人工物に置き換えて、
最後に残ったものが
本当の人間ではないかという
趣旨のコメントをブラックマジック単行本に寄せていたと思うが
(この文章は資料を確認せず ノリだけで書いているのだ、ゴメン)
残っているのは脳だけの「人形」バトーと、
体さえ持たないネットに偏在する素子との
愛(魂[ゴースト]の乱交ってなんだ?)という、
極めて純粋無垢[イノセンス]なものを描くということは、
士郎氏のテーマに やはりつながる面があると思う。
どうも犬の描写に偏重しているような印象があり、
バリバリの押井ムービーかと思えば
(いやそれは間違いないはずのことだ・・・)
意外にも「元漫画家士郎正宗の現役時代の作品」
と通じる部分が多いような予感がする。
というか舞台が択捉電脳都市に挿げ替えられた
ROBOT RONDOちゃうか?
というのは野暮な話であろう。
だから、イノセンス構造解析やるのか?ホームページ更新するのか?
と早合点しないで欲しい。
とりあえずBLOG感覚でだらだらと書いていることの延長に過ぎない。
だが復活後状況報告にとどめておいたコメント以上に
何かやってみたくなったのも事実であり、
また本業が忙しく(この辺かつての士郎正宗氏みたいね)
頻繁に更新できないのもまた事実であり、
イノセンスさえ上映期間中に見れるかわからないのもまた事実なのだ(笑)。
これで士郎正宗作品構造解析の名前を
外した理由はおわかりのことであろう。
ここでもうひとつの問題は、
「HYPER HOLONICS」
という言葉の意義である。
これは果たして従来言ってきたような、
いろんなジャンルの枠組みに突っ込んで
吸収することなのであろうか?
冒頭の仏陀の言葉を解き明かすことで、
その辺が見えてくるかも知れない。